天率教は、教派神道系の諸教に属します。
その教えは復古神道の範疇に入ります。
復古神道とは、一般に大陸から儒教や仏教などの影響を受ける以前の古代日本人の精神に、戻ろうとする思想ですが、天率教はさらに遡り初期大和民族の精神の復活を目指しています。
現状の神道では、旧暦月を「神無月」と言うように大半が出雲系民族の影響を受けています。御存じの通り10月は出雲地方だけ「神有月」と呼ばれています。これは日本全国の神々が10月には出雲に集まり、他の地域には神々はいなくなると言うことです。日本の神々は出雲系出身が前面に出て、大和系すなわち高天原の神々の大半は、埋もれている状態です。
毎年海外からもたくさんの観光客が参拝に来る、京都伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。稲荷神社は全国に約3万社があり神社の三分の一を占めるとされています。この宇迦之御魂神は、父は須佐之男命で出雲の神です。
奈良県桜井市三輪山周辺は、古代大和文明の中心と目される地域ですが、この三輪山を御神体とする大神神社の御祭神は大物主神です。この神は出雲の大国主神の和魂(にぎみたま)とされ大国主神そのものだとされる出雲の神です。三輪山は大和の中心にありながら、出雲の神にそのお座所を明け渡していることになります。
これは「日本書紀」で崇神天皇即位7年、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら)に集めて占うと、大物主神が百襲姫(ももそひめ)に神憑りをして、大物主神を敬い祀るように告げたというのが発端になっています。
大国主神は別名、大穴牟遅神、大己貴命、葦原色許男神、八千戈神、宇都志国玉神と呼ばれ、全国あらゆる神社で祀られています。
大和系高天原の最高神、天照大神は元々宮中に祀られていましたが、崇神天皇は疫病が流行ると神威を怖れ、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせ、やがて「倭姫命世記」などに書かれているように、丹後の籠(この)神社を始め各地を転々と遷座され、ついに伊勢で祀られるようになりました。結果、天皇家の祖神である天照大神は遠く伊勢の地に祀られ、出雲の大国主神が大和で祀られると言うことになってしまったのです。
現在でも伊勢神宮は、最高の格式を保っていますが、天照大神の孫である邇邇芸神(ににぎのかみ)を祀る神社は、箱根神社や真山神社、大平山神社など数社しかありません。「天孫降臨」と言う言葉は有名ですが、天は天照大神で孫は邇邇芸神だと知っている方はどれほどいらっしゃるでしょうか。
邇邇芸神は初代神武天皇の曽祖父で、天皇家の直系の祖神ですから、天照大神に次いで誰もが知っている神でなければなりません。
出雲系民族は、日本民族でありながら、その地理的要因から大陸文明の影響を色濃く受けています。大陸文明を一言で言い表すことは難しいですが、それは巧みに人の心を動かし、多数派を作ることでまつりごとを動かしていく。それは詰まるところ強いもの勝ちの文明です。
大和民族は元々、飛騨の乗鞍岳を中心とした地域で高度な精神文明を築いていたのです。高天原はこの飛騨にあったのです。
飛騨は「日抱き」からきている言葉で、人々が朝な夕なに、太陽の光を「抱いて」自身の身魂を磨いてきた場所なのです。「やまと」とは「やまのふもと」の略称で乗鞍岳のふもとに広がる場所を指していました。これは山本健造氏の「裏古事記」にも書かれています。言い伝えではありますが、「古事記」の上巻での神々の空想的な内容が、高天原を飛騨に置くと辻褄が合い歴史的事実として捉えられるのです。
この「裏古事記」では、飛騨で天照大神の本当の名である「ヒルメムチ命」が徳治政治を行っていたことが記されています。古代の日本の精神文明の中心は飛騨地方にあったのです。
天率教の教えでは、現在の世の中の乱れを「自分のことしか考えない生き方」と「金や物主体の生き方」にあるとし、その精神の始まりは、古代出雲民族を経由して大陸文明の物質中心主義や勝ち負け文明が我が国に入ってきたからだと考えます。
出雲民族が運んできた大陸文明の豊かな物資や政治体制は、やがて大和民族を席捲し、大和の神々を端に押しやりました。日本人はその後も儒教や仏教、さらには明治維新から大量に入ってきた西洋文明で、完全に「やまとの心」を喪失してしまったように見えます。
海外の文明が皆悪いと言っているのではありません。古代や中世においての大陸文明、近代からの西洋文明無くして、今日の我が国の繁栄はありません。しかしこれらの文明や精神で、大半の日本人は本来持っていた「やまとの心」を喪失し、金や物中心の生き方に堕落したことは事実です。その結果、物質は豊かになっても精神は深い闇の中を彷徨っているように思います。
天率教では、この「やまとの心」とは何かを教え、その精神を取り戻すための実践方法を教えています。ここではこの「やまとの心」の内容や実践方法は紹介できませんが、それは一言でいえば、惟神(かむながら)の生き方です。
日本人が「やまとの心」を取り戻さないと、この国は元より、世界はやがてこの物質至上主義で滅亡の危機が招来すると考えます。