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天率教は教派神道系、復古神道です。

第1回のブログです。

天率教HP(ホームページ)の「天率教とは」の冒頭では、

「天率教は、教派神道系の諸教に属します。その教えは復古神道の範疇(はんちゅう)に入ります。復古神道とは、一般に大陸から儒教や仏教などの影響を受ける以前の古代日本人の精神に戻ろうとする思想ですが、天率教はさらに遡り初期大和民族の精神の復活を目指しています」と書いています。

教派神道とは、幕末から明治時代にかけてできた黒住教や出雲大社教など13教団を指します。教派神道のきっかけは、1868年(明治元年)に法律で出された神仏分離を進めたことで、一般の人たちに神道とは何かを伝える必要性から、政府公認の新しい宗教が誕生したのです。

神仏分離とは何でしょうか。神様と仏を切り離すと言うことです。我が国には大昔から、天地や海、大岩などの自然や徳の高い人を祀ると言う風習がありました。生きている間にたくさん徳積みをされた方は、御昇天されたら神様として祀られたのです。

ところが、仏教が西暦538年、宣化天皇の時代に我が国に入り、最初は仏教を受け入れるかどうかで蘇我氏と物部氏が争うようなことも起きましたが、次第に仏教は日本古来から祀られてきた神々と協調し、交じり合うようなことが起きてきました。そうです。「神仏習合」という神も仏も一緒だとする考えが生まれてきたのです。

 例えば八幡大菩薩と言う、神なのか仏なのか分からない方を祀るようになったことです。

八幡神は応神天皇の神霊であり、大分県宇佐の地に示現(じげん)すなわちお姿を現され、武勇の神として源平や戦国時代に大いに信仰された神様です。ところがその神号に大菩薩が付けられている。御存じの通り、菩薩とは如来の次の位で悟りを求め多くの人々を救うため修行される方であり、仏そのものだと言ってもいい方です。第15代応神天皇は仏になってしまったのです。

本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と言う考え方が生まれてくる。本地とは仏のことで仏が神の形をとって仮に現れる言う考え方です。八幡大菩薩の場合、本地は阿弥陀如来で如来が八幡神として示現、現れたというわけです。

ひどい場合になると、天照大神の本来のお姿は大日如来であると言われるようになります。仏教の教えが我が国を席捲したのです。

ところが鎌倉時代の元寇の際に起きた神風など、人々の神への信奉が出てくると、本地は神であって、神が仏の姿となってこの世にあらわれたとする反本地垂迹説が出てきます。いずれにしても神と仏は、一つであると言う考え方が、明治時代まで続いたのです。

教派神道は、それまで神も仏も一緒だとする日本人の考えに、神と仏を切り離し、日本の神とはどういうご存在なのかを、教えるために生まれた教団群です。

教派神道は、戦後、教派神道連合会として組織され、1956年にはこの連合会に大本教も加入します。天率教は大本教の流れを受けてできた教団なので、教派神道系と言うことになります。ただ天率教はこの連合会には加入していないので、1970年にこの連合会を退会した天理教と同じで諸教という分類に入ります。

次に、教えでの分類では、開祖様の教えを深く信奉した復古神道(ふっこしんとう)であると言えます。復古神道とは何でしょうか。さきほど我が国は長い間、神も仏も一つだと考えてきたと申しました。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)と言いますが、明治時代に神仏分離の法律ができて両者が切り離されるのです。

 しかしそれ以前の江戸時代にもこの二つを分けて、本来の日本の神を研究しようとする人達が現れていました。国学の誕生です。国学の中心人物、本居宣長(もとおりのりなが)の登場です。古事記というそれまではほとんど顧みられることのなかった現存する最古の古典を約38年かけて研究し、「古事記伝」と言う古事記の注釈書を著したのです。

宣長は、源氏物語や和歌の研究を通して、人間のあるがままの感情を、善悪の倫理的な判断に及ぶことなく、そのままに肯定することが、大和魂だとしたのです。

そして宣長は、ものごとを虚飾によって飾り立て、中華思想をやたらに正当化し、不都合なことを糊塗(こと)する、すなわち一時しのぎでごまかす態度を「漢意(からごころ)」として批判しています。

この本居宣長の教えを引き継いで、出てきた人が平田篤胤(ひらたあつたね)です。篤胤は国学者でかつ神道家でもあり、復古神道を大成された方だとされています。

篤胤は、宣長のように古典を重んじた生粋の学者ではなく、実証ができない霊界のことにも深く造詣がありました。例えば実証主義の宣長は、死んでから行く霊界は汚れた場所だと忌み嫌っていましたが、篤胤は霊界にもこの現界と同じような世界が広がっており、徳を積んだ人は神界に行くことができ、この現界の私達を見守って下さる存在になれると言っています。

宣長や篤胤などの尽力で国学は盛んになり、神仏習合に慣れていた民衆にも、神と仏とは違うと言う概念が生まれてきました。そして水戸や長州の武士階級を中心に日本の神道の優位性に目覚め、天照大神の子孫である天皇こそ、この国の統治者に相応しいとする考え方が生まれてきます。この考え方が、やがて尊王攘夷思想に繋がっていくのです。

天率教は、平田篤胤の教えを受けた多くの神道家の流れでできたので、本来の日本の神を信奉していこうとする復古神道であることは間違いではありません。

しかし一般の復古神道と違うところがあります。それはホームページでも書いたように、天率教はさらに遡り初期大和民族の精神の復活を目指しています。

神道には、大和系と出雲系の二種類があります。我が国はこの二本(にほん)の柱でできているので、日本(にほん)と呼ぶのです。しかし日本の精神文明の発祥は、大和民族によってもたらされました。ではこの大和民族とは何でしょうか。

私は「裏古事記」であるように、この初期大和民族は飛騨に住む人たちであったと神智を頂いています。淡山(あわやま)と呼ばれた乗鞍岳やそのふもとに人が住むようになったのです。乗鞍岳の「のりくら」は「祈り坐(くら)」からきており、大和の「やまと」とは乗鞍岳の「山のふもと」からきています。人々は朝な夕なに日の蔭を頂き、自らの身魂を見つめ磨く「日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)」を行っていたのです。この「ひだき」から飛騨と言う地名が生まれました。

 そして今から、2300年~2500年位前のこと、大淡上方様(おおあわのうわかたさま)と言う大変賢く神通力が強く、未来の見通しの効く偉い人が現れました。日抱御魂鎮中に、近い将来異民族が海を渡って来て暴れることを見通されて、外国に侵略されず、皆が幸せに暮らせるにはどうしたらよいかいろいろご心配されたのです。

この初代大淡上方様から、15代淡上方様を経て、35代皇統命(すめらみこと)になったヒルメムチ命は、飛騨からははるか遠い北九州の地に不穏な動きを察知されて、ご自分の娘3名を様子見に派遣されます。また古事記や日本書紀にも出て来る「出雲の国譲り」の際には、天菩比命(あめのほひのみこと)に続き、天若日子(あめのわかひこ)を遣わされます。両者が役目を果たせなかったので、建御雷之男神(たけみかづちのお)に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中つ国(あしはらのなかつくに)に遣わされました。建御雷之男神は見事、国譲りを成し遂げて葦原中つ国を平定されるのです。

 国譲りの際に、大国主命は建御雷之男神に「私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私は百(もも)足らず八十坰手(やそくまで)へ隠れましょう。」と言いました。「百足らず」は「八十」の枕詞で「くま」は「隅」、「て」は方向を示します。つまり自分は「遠く離れた場所」に行き姿を現わさないと言うのです。

この会話で、精神文明の発祥である飛騨で生まれたやまとの心と大国主命に代表される出雲民族の精神との大きな違いが見て取れます。

飛騨では、長であるヒルメムチ命の意向に対して、誰も条件を付けずただ素直に動いています。それに対して大国主命は、国を譲る代わりに大きな住む場所を要求しています。つまり交換条件を出しているのです。大和系の建御雷之男神が、国譲りの交渉に向かうにあたり、ヒルメムチ命に対して交渉を成し遂げたら何かを要求するとか、成就後にヒルメムチ命からご褒美をもらったと言う話は一切出てきません。日本の精神、やまとの心が、見返りを求めない精神だと言うことがよく分かります。

このようにして女性でありながら、世が乱れ始めた困難な時代を無事治めたヒルメムチ命は御昇天をされて天照大神と称されるようになります。

天照大神には、須佐之男命と言う弟がいました。高天原で乱暴をして天照大神が岩戸の隠れたことは有名ですが、やがて須佐之男命はそのことの責めを負わされて、高天原を追放されます。出雲の国の斐伊川の上流に降り立つと、美しい娘を挟んで老夫婦が泣いていました。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命(あしなづちのみこと)と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)と言いました。

夫婦には娘が8名いましたが、年に一度、高志(こし)から八岐大蛇(やまたのおろち)という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物が、やってきて娘を食べてしまう。今年も八岐大蛇が来る時期がきたので、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていたのです。

 そこで須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八岐大蛇の退治を請け負いました。結果、八岐大蛇は須佐之男命に十拳剣(とつかのけん)で切り刻まれて退治されるのですが、この須佐之男命の行動が出雲民族の性格を表していることがわかるでしょうか。そうです。八岐大蛇の退治の条件に、娘との婚姻を老夫婦に承諾させているのです。須佐之男命は天照大神の弟と言うことになっていますが、私は須佐之男命は出雲系の神だと思っています。

このように本来「やまとの心」で治められていた日本の国に出雲民族の精神が入ってくるようになりました。この二つの精神は、相手のためにした行動に対して、見返りを求めるかどうかで大きく違うことがわかります。

始めにも申しましたが、天率教は復古神道ですが、それは平田篤胤達が唱えた仏教や儒教が入ってくる以前の精神に戻す復古神道だけではなく、さらにその以前の出雲民族の精神が入ってくる前の日本の精神、すなわち「やまとの心」を復活させていく神仰なのです。

見返りを求めない「やまとの心」は何故大事なのか。それは神様の御意に通ずるからなのです。神様のお姿は拝させて頂けなくとも、その一部のお姿、御意を毎日我々は拝させて頂いています。

それは太陽のお姿です。毎朝太陽は東から上ってきて、大地を照らし生きとし生けるものすべての生命を支えて下さっています。これほどの恩恵をもらっているのに、太陽からは見返りを求められることはありません。これが神様の御意なのです。神様の御意に繋がる「やまとの心」で日々過ごさせて頂ければ、幸せになれないはずがないのです。

私達が「やまとの心」と取り戻すには、言霊(ことたま)、洗霊(あらたま)、数霊(かずたま)の三霊(みたま)を勉強することが大事です。三霊の御神業については、HPで少し触れています。

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